求められる人材と手当ての水準
先日、独立行政法人の事業仕分けが行われ、役職員の給与や手当等について仕分け人から厳しい意見が出されました。
組織を経営するにあたり、「ヒト・モノ・カネ」のそれぞれの観点から目指す経営を実現するためにどのような対策をとるかを考えることが重要です。ですので、独法においても、職員については、経営目標(注)を達成するために必要な人材を労働市場から獲得してこなければなりません。
(注)もちろん事業として国民にとって意味あるものという前提です。事業そのものが必要ない、と判断されれば役職員の手当ても何もありません。
仕分けでは、個別の役職の手当てが「高い。民間では考えられない」という指摘がされていましたが、まず経営目標を何にし、それに基づき職員にどういう仕事をさせるか、その仕事ができる人材が労働市場においてどのような需給バランスにあるか、ということを考えないと適切な水準が判断できません。「民間」とひとくくりに言っても、求める人材によって必要となる対価は千差万別でしょう。
では、仕分けの場で、どういう人材が必要か、またその人材の労働市場における需給バランスはどうかということを個々の役職について議論することが適当かといえば、仕分け人は各分野の専門家とはいえ、「人事部」の人間ではないのですから、個別の役職に求められる役割と労働市況について十分な知識があるとは思えませんし、また、それを議論する時間もないと思います。
何がいいたいかというと、
· 組織として必要とする人材を定義しないと、手当ての妥当性については高いとも安いとも議論できない
· 手当ての水準は、労働市場の需給バランスに左右される
ということです。
大事なことは、より少ないコストで大きな成果を達成する(すなわち効率化を図る)ということですから、既にやっているように総人件費は「5年間で5%削減」といったようなキャップをかけつつ、どこの役職にどのぐらいの待遇でどういう配置をするかといった運用は、各独法に任せることでよいのではないでしょうか。求められる人材の質のいかんにかかわらず一律に手当てをカットしたりすると人材流出が生じ、業務に支障がでるといった事態になりかねません(注)。
「各独法に任せていては、独法は職員に甘い手当てを与えつづけるに違いない」という懸念があるかもしれませんが、総人件費は削られていくわけですから、各独法は、その制約のなかで経営目標を達成しようと人事制度改革や能力別供与の導入などの効率化を図ろうとするはずです。それをしない独法は生産性が低下し、求められている役割を果たせなくなっていきますので、次の仕分けや評価委員会で厳しい評価がくだされるでしょう。
個々の役職の手当について事業仕分けの場で「高い」と指弾することは、パフォーマンスとしては刺激的ですし、各独法にコスト意識を持たせるうえで有効だと思いますが、それが各独法の経営の柔軟性を損い(「仕分けの場で言われたからとにかく下げなければ…」「あの役職は高いと言われたから安くて済む若い年次の人間をいかせよう…」)、求められる人材・役割と実際の報酬・手当てのミスマッチが生まれ、人材流出や組織としてのパフォーマンスの低下などの弊害が生じることを危惧します。
(注)この点、「手当てが少なくても熱意をもった職員を雇えばよい」という意見もあるかと思いますが、国家公務員については近年志願者が減少したり、転職者も増えていると聞きます。
小説「坂の上の雲」のなかで正岡子規が
「人間のえらさに尺度がいくつもあるが、最少の報酬でもっとも多くはたらく人ほどえらいひとぞな。一の報酬で十の働きをするひとは、百の報酬で百の働きをする人よりえらいのぞな」
という箇所があり、昨年末のNHKドラマの中でもこの台詞が採用され、いかにも明治の日本人はこういう矜持をもっていた、というような取り上げられ方をされていたように思いますが、子規がわざわざこういったのも、明治の頃も人は報酬にみあった仕事を選んでいたからで、大筋の傾向において、人は経済的インセンティヴに(も)反応するという点は考慮にいれておく必要があります。
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